誰かを助けたかったあなたへ。自己犠牲しないで助けるとは
母を助けたい、父を助けたい。
相手のために、なんとかしたいという気持ちが強ければ強いほど、
ギリギリまで、相手を背負ってがんばってしまうものです。
そして、背負いきれなくなったとき、
プツリと切れてしまうことがあります。
もう無理。私には助けられない――。
ちゃぶ台をひっくり返したことがありました。
10代の頃。
ほんとにひっくり返しました。ちゃぶ台。
ごはん茶碗が、割れました。
子どもって、親の愚痴を、まともに聞いてしまうんです。
「これは、なんとかしてあげなきゃいけない問題なんだ」と捉えてしまうのかもしれません。
そして、相手の問題を自分がすべてを背負って、状況を変えようとがんばるのですが、倒れます。
うまくいかなくて、潰れてしまうんです。
そして、できなかった罪悪感・失敗感から、
相手を責めるか
そこから逃げるか
になってしまうこともあるんです。
だけど。
やり方が、違うみたい
相手の人生を丸ごと背負おわなきゃと、あのころは思ってしまったけれど。
そのやり方しなくて、よかったんです。
「あなたは、助けたい人なんですね」と言われたことがある方もいらっしゃるかもしれません。
私は、思うんです。
本質的には、誰もが、助けたい人なんじゃないかと。
自分の身の回りの人が、笑顔でいてくれるように。
誰も悲しい思いを、しないですむように。
助けたいも、愛したいも。
私にとっては、同じジャンルの言葉です。
ただ「助けたい」には自己犠牲がついてしまいがち。
助けたい思いそのものは、悪いものでは決してない。
でも、どれだけ自己犠牲をせずにいられるか。
それが大事。
自己犠牲をしないで助ける方法って、もっと、ずっと楽なやり方です。
その方法とは、相手との間に橋をかけること。
コミュニケーションの橋をかけるんです。
そのうえで、
相手の価値を見ます。
相手の中の愛を見ます。
相手の力を信じます。
すると、相手はその人自身の価値を思い出します。
その人自身の力を思い出し、自分で道を切り開いていきます。
相手の力を信じて、ただ応援を送る。
助けることって、本来は、それで十分。
そして。
愚痴って、ただの愚痴なんです。
子どもの頃はそう思えなくて、真面目に聞いてしまうのだけど。
相手は、ただ思いを吐き出していただけ――かもしれません。
きっと、一人では抱えきれなかったのでしょう。
だから、思いを吐き出していただけーーなのかもしれません。
子どもの頃に、教えてほしかったよね……。
もうひとつ、親を助ける方法があります。
それは、子どもである自分自身が幸せになること。
別に、大きなことしなくていい。
結婚してるとか、してないとかも、
どっちでもいい。
楽しく毎日を、暮らしていればそれでいい。
楽しそうに、元気にやっていればそれでいい。
子ども自身が幸せであること。
それが、親の喜びになるのです。
毎日の生活の中に、楽しみを見つける。
小さなことで、いいんです。
目の前に選択肢があるときには
楽しいほう、満たされるほうを選ぶんです。
それが、自分の周りの人たちをも、幸せへと導くことにつながるから。
こんなアファメーション、いかがでしょう?
自由に生きています。
自分の人生を、自分のために思いっきり楽しんでいます。
私は、本当に大切だと思うことを、ちゃんと大切にして生きています。
私は、いつも、自分が幸せになることを選びます。
これから10年、私の人生はどんどん開けていきます。
これから10年、自分のやりたいことをし、豊かで愛にあふれ、人と豊かさをわかちあう、楽しい人生になります。
みなさんの幸せを、応援しています